入院漫談⑩ 最終章

 これが入院漫談の最終章。

もう入院しません、入院しません、入院しませんので!

 

 昨日は病院に行き、鼻の中に残るプレートやガーゼを全部取った。

 ハサミやカメラが鼻に入っているときはさすがに痛みを感じた。カメラは5cmぐらいの内視鏡だった。これを見たときに、手術は全身麻酔で良かったと初めて思った。なぜなら、昨日は鼻から副鼻腔までの通路だけ掃除したので、副鼻腔に入れてしまうともっと長いカメラを使ったに違いない。意識ない時は分からなくて済むけど、昨日ははっきりとこんな長いやつが鼻に入ってくるのを認識しながら手術行ったので、痛みよりもカメラが入ってくるぞという恐怖が一番不快だった。

 プレートでいうと、金属板のイメージは強いが、僕の鼻に詰まっていたプレートは、直径3センチほどのシリコンの円形板二つであった。いざ鼻の中の異物を取り出してしまうと、凄まじい解放感がした。この解放感は肩のプレートを取った後にも感じた。一番最近に感じたのは、今日イギリス留学時である。約束通りのちょっと汚い話だが、これに勝る解放感のエピソードは中々ない。

 僕が住んでいた街はブライトンという海辺のリゾート地だった。留学中良く友達とパブに行き、浴びるようにアルコールを飲んでいた。一番よく通っていたパブが海から近かった。帰り道はいつもビーチを歩きながら帰った。夜の海は真っ暗で、ホライゾンが分からなく、海と空に境界線が消えていた。暗すぎて、潮の音がなかったら、海の存在すら分からなかった。中二心でありながら、ビーチから一歩進めば無の空間に踏み入れてしまうと想像すると、妙にドキドキしてしまう。冷たい夜の潮風に吹かれ、アルコールの利尿作用が働き始める。イギリスはコンビニのようないつでもトイレが使える所がなかった。留学初期は我慢して家に帰ってから用を足したが、ある日おしっこを我慢しながら、パブ帰りで海を見ながら一念発起した。全ての数が0を掛ければ0になると同様に、無の空間に何を残しても無であると悟った。そこから潮がギリギリまでくるとこに行き、チャックを下ろし、用を足した。どうせ満潮の時、自分が用を足した場所を海がそれを希釈してくれると、自分の恥や罪悪を自分が薄めた。こうして、僕はイギリス海峡をトイレにした。

 赤裸々の自分を丸出し、それを受け入れてくれる相手がイギリス海峡。もしかして自分が生み出したおしっこを、海水が対岸のフランスまでもってくれるかもしれない。このスケールの大きさや解放感はどんな大きいトイレでも感じることはできないだろう。暗闇に隠れた海よ、ありがとう。

 もちろん、留学中この海を舞台とした色んなことがあった。しかし、一番気に入ったのは真夜中の海であり、一寸先は闇の海岸だった。留学最後の飲み会の帰りに、スペイン美女と一緒に帰った。海岸沿いを歩きながら、酒の勢いでこの人には言えない趣味を話したら、大いに共感されて、「if I was a man , i would do the same 」と言われた。

 物理的に鼻のプレート抜きはイギリス海峡をトイレにしてしまうほどスケール大きくない。しかし24年間無意識によって行われる動作が人工的に止められ、その2週間後また人工的に再開されると考えると時間軸でスケールの大きさを挽回できた気がする。前回の入院も気づいた普段通りのありがたさを今回も感じた。普段自由に動けるはずの肩が、思ったまま動かすことができなくなる。しかし、普段肩を使う時誰がそのパーツを意識しているだろう。鼻で息をすることは当たり前すぎて、無意識に行われているが、いざできなくなってしまうと、普通の鼻呼吸を有難く思ってしまう。入院して一番得たこと普段通りの生活や健康の体への感謝だった。

 

入院しないために、これから健康的な生活を送る予定です。皆さまの体が怪我せず健康的な体でありますようにお祈り致します。

これで入院漫談を終了させていただきます。

長い間ご愛読ありがとうございました。

もう入院しません、入院しません、入院しません。

 

 

 

 

 

入院漫談⑨

 やっと口呼吸になれた気がする。いまや先生の指示通りに毎日鼻うがいをしている。鼻をきれいにすることと、鼻腔の中から溶けたガーゼを流すのがその目的である。すでに前述したように、僕の両鼻の奥までガーゼが詰まっている。そのガーゼは一般のガーゼではなく、一定の期間過ぎたら自然と溶けるガーゼである。吐き出すとそのガーゼの上に古い血がたまっているので黒く見える。

 最初からこのガーゼに体が抵抗していた。24年間無意識的に鼻で呼吸していたため、いきなり空気の正当な通路が塞がれるとどうしても不慣れが大きかった。口呼吸も決して気持ちいいのではなかった。呼吸を人が家に入ると譬えると、空気が人であり、気管や肺が家に当たる。そして、鼻呼吸とは玄関のドアから部屋に入ることであり、口呼吸とは玄関に鍵が掛かってて入らいないから、窓から入らなくちゃいけないのである。

 寝る時は特にその抵抗が強い。口呼吸がまだ体の潜在意識として記憶されていなかったため、寝れば呼吸が止まってしまうじゃないかという杞憂があって、必死に眠気と戦っていた。折角看護師から安眠薬点滴してもらったのに、頑なにに寝ないようにしていた。途中で何回か寝落ちの事もあったが、自分の鼾声にすぐ起こされた。

 9時に消灯して、翌朝までの間ずっと、ガーゼの事が気になってしょうがなかった。一刻でも早くこの異物を取り出したかった。入院の計画書では、術後3日目にガーゼを取ると書いてあったが、それすら長く感じた。その気持ちは2年次に部活辞めたい気持ちと通ずるとこがあった。4年で引退できることは知っているが、それが長すぎる。終わりはいずれ見えてくるけど、先はまたまた長い。

 期限が見えてくることはわからないよりよっぽど安心できる。術後の夜、眠気と戦うために、そして自分に期待を与えるために、入院計画書の三日目を何回も、何回も読んでいた。

 余談ながら、やはり僕の考えが飛んでいる。計画書を繰り返して読んでいるうちに、なぜかマンデアを思い出した。確か彼は27年間入獄されていたが、最初は終身刑として投獄されていた。先が見えないところが、先がないはずだった。僕の場合は術後三日目にガーゼから解放されるという明確な期間があるのに対し、彼は一生牢獄の中で過ごすかもしれなかった。それでもこの偉人は収監中今できることだけを考え、勉学を続け、法学士号まで取得した。束縛されて、終わりが見えてこなくても平常心でいられる彼には、吾輩は遠く及ばないと考えていた。

 マンデラの境遇を考えるとたかが3日間は何とか耐えれる気がした。

 ところで、次の日看護師に確認すると、ガーゼは取らないよと言われた。見えてきた薄い希望の光が情けないけどかわいい看護師に消された。彼女曰く、僕がもらった計画書は古いバージョンで、いまは医療科学の進歩により、ガーゼは取らなくても鼻の中で溶けるようになっている。それがどのぐらい時間かかりますかと僕は聞き返した。その答えは1週間ぐらいであった。

 3日間さえ我慢すればいいのに、今は1週間ぐらいになった。これは進歩とはいえるのか。僕はまた絶望の深淵に堕ちた。

 

 力を与えてくれよマンデラ氏。

 

 

 

 

入院漫談⑧

 前回の続きで、術後の話である。

 意識を取り戻した僕は、尿意に襲われた。麻酔から覚めきれてない体を、意識が無理やり引っ張って、トイレまで連れて行こうとしていた。確か前の病院で、いっぱいおしっこすると麻酔の成分がより早めに体外に排出できると言われたことあるような気がする。

 いざトイレで用を足そうとしていたが、突然出口から沁みるような痛みに襲われた。余談ながら、少林寺の技で金的蹴りというものがある。男なら誰でも恐る技だが、断然に今の方が痛いと思っていた。いや、次元が違う。まるで針に刺されたかのように感じた。

 その後、手術が予想より長くかかりそうだったので、止むを得ず術中導尿管を付けてくれたことを、先生から聞いた。

 あんまりの痛みにお小水が怖がって、溜まっていたのに全然出ようとしていなかった。その時覚えた痛みは、人生の中でもトップクラスぐらいじゃないかなと思った。なぜそんなに痛いのかを分析すると、外側ではなく内側が痛んでるから余計に痛いのではないかと結論ついた。

 我らプロレタリアの導師であるレーニン同志はかつて次のようなことを仰っていた。

 「砦や城を攻め落とすには、外部から攻めるより、その内部から破壊した方が効率がいい」と

 まさにその通り!

 つまり、 お小水を体外に排出する器官を城だとすれば、(城といっても、天守閣がついている程ごリッパなものもありますし、五稜郭みたいなのもある。そこは個人差)少林寺の金的蹴りは外から大砲で打つスタイル。それはある程度城イタムけど、やはり一番城をイタマセルのは、城の中の火薬庫を爆発させることでしょう。

 あの痛みを覚えた以来、しばらくトイレに行くのを控えていた。「城」の内側がボロボロであることを承知していたからである。どうしても我慢できない時は、必ずタオルを持ってトイレに行った。そのタオルの目的は二つあった。一つは手拭きのためであり、メインはやはり排尿時の痛みを緩和するためであった。使い道として、お小水が出る前にタオルを噛み締め、その後覚悟を決め一気に出す。

 

シェイクスピアの名台詞:弱きものよ、汝の名は女という。(Frailty , thy name is woman !)はあるが、僕は男だけど、やはり弱ったときは弱い...

 

入院漫談⑦

 ベテラン患者として、一番辛い時期が全身麻酔後の三時間である。

 肩の手術はそうだったし、今回もそう。

 

 全身麻酔を受けたことある人なら必ず経験したことあると思う。それは麻酔覚めてから三時間マスクつけて酸素を吸うことである。なんとも思わない人もいるけど、自分にとって結構のトラウマである。麻酔から覚めたとはいえ、完全にその影響が切れたわけではない。意識があったり消えたりするし、体も思った通りに動かない。しかも今回の手術は鼻の手術だので、術後の血などは全部口経由で外に出す。要するに三時間酸素マスクつけながら、意識朦朧の中で、頻繁に上体を起こして大量な血などを吐き出さなくてはいけなかった。普段筋トレ励んでいたのに、このときどうしても腹筋に力が入らなくて、横になったまま吐き出したりもした。

 一昨年の手術の経験から、いかにこの三時間を耐え切るのかは重要だと思う。ただ寝るだけで過ごせるならもちろんそれに越したことはないが、奈何せん自分にはできなかった。どうしても覚めたりとかするので、意識朦朧の間何かを脳内の劇場で再生させないと時間が余計に長く感じてしまう。2回目肩の術後は脳内に音楽を流していた。痛みなどを緩和するだけではなく、時間を測るための工夫でもあった。例えば、ある8分の曲があって、この曲が8分だから、脳内で一通り再生したら、もう8分過ぎたことが解る。しかし、時間という概念を創造(或いは想像)したのは人間である以上、それがいつでも、誰にとってどんな状態でも等しく流れるものではないに決まっている。要するに当時の自分が8分の曲を脳内再生するつもりだったのに、現実(或いはソトの世界)ではもう30分が過ぎたような状況がほとんどであった。哲学か物理に詳しい人に聞きたいが、これはいわゆる相対性理論でしょうか。

 相対性理論といえば、その理論を築き上げたアインシュタインがかつてこのようなことを言った。即ち「熱いストーブの上に1分間手を載せてみてください。まるで一1時間ぐらいに感じられるでしょう。ところがかわいい女の子と一緒に1時間座っていても、1分間ぐらいにしか感じられない。それが相対性というものです。」と。

 それをヒントにして、今回の術後三時間の対策は曲再生ではなく、楽しい思い出を映画のように脳内で上映することにした。まず曲再生しても時間を測ることができないと前回の入院でわかった。そして、楽しいことをすると時間が短く感じられてしまうので、もしかしたら、楽しい思い出に浸る三時間が3分間のように感じるかもしれない。

 一応手術前の1ヶ月はその思い出選びを意識していた。やはり去年の留学が一番新しい記憶なので、留学中の楽しい思い出を選んだ。

一人海岸で横になって、「君をのせて」を聞きながら、イギリス海峡を眺めた記憶。

バーベキュー終え、夕日に向かってハーモニカを吹く記憶。

ローマ旅行中すごく神々しく感じた入道雲クラウドナイン。

冬の一人旅で、セーヌ川散歩中空から落ちてきたように急に現れたエッフェル塔

グルテン丘のnorwegian wood 。レマン湖の桟橋。

アーベルクの乙女。ローザンヌのバルコニー。

などなど

 こちらの記憶はいずれもホントウに強い喜びを感じさせる思い出である。ハリーポーターの世界観を借りれば、こちらの記憶はいずれも自分の守護霊を呼び出すことができ、「エクスペクト・パトローナム」を唱えればディメンターを退治できるほど強い。(思い出す時に、ショパンの別れの曲か、ドビュッシー亜麻色の髪の乙女か、ゴッドファーザーのテーマのbrucia la terraかをBGMに流すと威力が倍増する)

 万全の準備をして、術後の三時間に臨んだが、計画通りにいけなかった。

 前述したように、術後頻繁に上体を起こして血を吐く必要があった。ということは肩手術の術後みたいにただ横になるだけの三時間ではなかった。つまり一つの思い出のクライマックス及びその前の段階で、すでに血が喉から垂れてきたので、すぐ現実に戻り、上体を起こしそれを吐き出さねばならなかった。せっかく用意した強い喜びを感じる思い出が中途半端に脳内再生し、すぐ意識を現実に戻して、ソトの時間に支配されざる得なかった。

 結局、血を吐くの合間、最近ハマっている北京の民謡を脳内再生していた。

 

3時間後、23歳の可愛い看護師が酸素マスクを外してくれた。若干尿意があって、トイレ行こうとしたが、その後術後三時間よりもっと辛いモノが待っていたことを、当時の僕は知る由もなかった。

 

 

入院漫談⑥

 僕が入院すると聞いてこのシリーズを期待していた読者の皆様、更新遅くなりましてすみません。このシリーズは本来一昨年終了する予定でしたが、最終回書いてなかったせいなのか、また新しい病気かかって入院せざるを得ないことになりましたので、今年も更新することになりました。
長い文章を書くのが久しぶりなので、一昨年のように受けがいいものになれるかどうかわかりませんが、よろしくお願いいたします。
 もう更新することがないように心から祈っていますが...
 今回の入院原因は慢性副鼻腔炎です。
 簡単に説明しますと、人の頭の中、鼻から吸い込んだ空気を加湿及び加熱するための部屋のような空洞が4つあります。その半分が感染して、抗生剤約半年飲んでも根治できなかったので、手術することになりました。
 


 発症したのは、恐らくイギリス留学時からだろう。
 当時は2ヶ月間咳が続けており、市販の薬飲んでも治らなかったので、公立の金かからないかつ国民保険いらない病院に行き診てもらった。患者の負担額がゼロなので、医者の方の対応もご想像の通り、共産主義国国営企業で働いている者かのように深く問診してくれなかった。ただchest infectionと言われ、抗生剤の処方箋をもらった。
 1週間分の薬を飲み終えても、よくならなかった。ちょうどその間用事で頻繁にとある永世中立の国に行かざる得なかったので、ストレスや疲労で一気に悪化して、ついに血が混ざっている痰を吐くようになった。
 初めて喀血の情景は今も鮮明に覚えている。ローザンヌのホステルのトイレで、痰の色をチェックしたら、赤い糸状のものが混じっていた。
 まさに青天の霹靂だったが、すぐこれが血ではないと自分に言い聞かした。
 確かこれが朝飲んでいたオレンジジュースの色だと無理やり自分に信じさせようとした。
 が、あの後結局病状がどんどん酷くなり、毎朝まず痰を全て吐き出さないと1日始まれないほどだった。その痰を吐き出すには30分ぐらいかかった。
 痰の色は黄色と緑に赤が混じった感じだった。時に イギリスは秋だったので、町中木の葉っぱがどこにでも落ちていた。落ち葉の殆どが枯葉ではなく、色がついていたものだった。面は薄緑、裏は薄黄色。道路の上この二つの色に覆われた。
 ある日痰を吐き出した後、学校行く途中でこの光景を見てふいに思った。もし紅葉も落ちてたら自分の痰の色とそっくりだなと自嘲した。
 そして3ヶ月後帰国して、すぐ病院に行ったら、慢性副鼻腔炎と診断され、抗生剤を飲む毎日を過ごした。
 手術は内視鏡が使われた。
 まず、僕の鼻の骨の曲がった部分を切り取り、視野を広くする。空洞の入り口を拡大する。そして鼻の奥にある感染した空洞の粘膜を削り、洗浄する。最後に鼻の中にプレートを挟み、両鼻の奥まで、ガーゼで塞ぐ。
血や痰は鼻から落ちなくなったので、全部口経由で体外に排出する。最初は1分に2、3回ぐらい吐き出さねばならなかった。このブログを執筆するときは10分に2、3回ぐらいのペースでしている。また鼻の中ガーゼ入ってますので、当然鼻呼吸ができない。それを2週間続く。味覚というものは舌と鼻両方で感じるものなので、鼻が塞いている分、飯食べても味が分からなかった。そして、寝ているとき自分が自分のいびきに時々起こされてしまう。
 全身麻酔や導尿管による苦痛は3日目で消えたが、喀血や口呼吸がもたらす疲労感や痛みは今になっても完全に消えていない。
 予定では術後3日目からブログを開始した筈だが、ついに退院前日まで後伸ばした。

 

 入院に至る経由は以上までで、明日退院しますが、このブログはまた更新します。明日から、入院中の所見や考えた事を読者の皆さんとシェアさせていただく予定ですので、仕事の一休みとして読んでいただければ幸いです。そして今回こそこのシリーズを終わらせますので、ちゃんと最終回を書きます。

 長文や拙筆にも関わらず読んでいただき有難うございました。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

入院漫談⑤

 入院して八日。

 

今日イケメン君が退院した。

 

鉛色の空がこれ以上なく低く、地面に沈もうとしていた。近いところにある建築中のビルが、それを突き刺す勢いで、頑張って高さを伸ばそうとしている。そして、カーテンを開ける時に窓の結露。いかにもこの深秋の寒さを物語っている。

 

昨日の夜、イケメン君がいきなり「ドクターってかっこいいですね」と言い出した。なるほど、確かにそのプロフェッショナルを自分も格好いいと思っている。彼がサッカー部なので、僕が「プロのサッカー選手もかっこいいよな」と返した。

 

その後も話が続いていたが、結局病院の先生にしても、プロのサッカー選手にしても、みんな間違いなく一つのスキルを持ち、それを極めている(プロの人からして、極めようとしているが)。だから、格好いいのだ。というのが、我々の結論だった。

まさか、最後の一晩に真面目な会話をすると思わなかった。

 

イケメン君と知り合いになった時に、彼がサッカーのプロになるのか、それとも就活するのかを悩んでいた。だが実はその時、すでに彼が選択を決まっていた。サッカー選手の引退が早く、その後の生活を考えると、やはり就活する方が得策だ、ということで、来年就活することにした。僕と一年しか変わっていないので、彼の意見に口を出す事ができなかった。

「でも、サッカー選手も捨てがたいですね〜」と、時々彼がその言葉を漏らす。

「サッカーをそんなに愛しているならば、プロになってもいいじゃないかな〜」と、時々僕が思う。

 

まぁ、何するにしても、その道のプロになればいいだろう。サッカーのプロにしても、就職してその業界のプロになるにしても、活躍分野が違うだけで、人間的な魅力はちっとも変わらない。自分の選択に責任を持ち、辛い目にあっても、死ぬまで後悔しなかったらそれでいいだろう。

 

荊の道を歩むだろうが、あんなもん関係ない。

気張れ!イケメン君。

彼が退院した時、些か雨が降り始めた。

 

 

通路を挟んで、僕の向こう側に年配なおじいさんがいる(大凡70ぐらい)。イケメン君がいなくなると、部屋の旧メンバーが彼と僕しかいなくなった。

このおじいさんがとにかく無口な人だ。

病気で、お粥しか食べれず、その口から発している言葉も聴き取り難く、喃語のようなものだ。(しかし、こんにちはだけは聴き取りやすく、力強い)

仮に病気がなく、綺麗な言葉喋れるにしても、この人は決してよく喋る人ではないだろうと僕が思う。理由あるわけではないが、そう確信している。

毎日、妻と娘が見舞いに来ている。

夫の方と眞逆で、妻が明るくて、よく喋る人だ。

おじいさんが頑張って食事をすると、妻がまるで子供を相手にしているように自分の夫を励ます。

「じょうず、じょうず、よく噛んでね」

「全部食べたの、えらいじゃない。」と

それを聞いたおじいさんも、いつも子供のように喜び、純真無垢な笑顔になる(筆者の想像)

 

彼らは知らないが、年寄りの看護師みんな、この老夫婦を羨ましく思っているのだ。僕はある看護師(40後半、女)と雑談している時に、この老夫婦が話題になった事がある。その看護師曰く、「無口な夫に明るい妻、すごいいいコンビじゃない。羨ましいわ」と、かなり憧れているようだ。

 

僕は結婚にとても大きい抵抗感を抱いている、しかし、この老夫妻が例外だ。いつ結婚されたのかわからないが、彼らの人生が実に日本の成長とともに歩んできたのだ。幼い時に戦争が終結し、青年の頃東京オリンピック、働き盛りの時期に日本が飛躍的な経済成長を成し遂げ、定年とともに、バブルが崩壊する。彼らがまさに時代の証人だ、この老夫妻がお互いの手を握りながら、それらの事を自分の目で見る事ができ、参加した。

おそらく生活がきつい時に無口な夫が、家族の大黒柱となって、家族を支えてきただろう。そして、今やその大黒柱が弱くなり、逆に明るい妻が世話をしている。彼らの姿を見ると。外が雪だろうが雨だろうが、この老夫婦がいる限り、西病棟の8053室はいつも暖かい。

 

P.S今日おじいさん三分粥まで挑戦し、それを食べきれた。

おめでとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

入院漫談④

入院して六日

 

外語祭は鮮やかに幕を閉じているなか、僕は六日目の入院生活を迎えた。

静かな湖のような、何もない一日になる事を予想していた。が、結局そよ風が吹き、その静かな湖面にさざ波が立った。

 

ナイチンゲールの精神に則り(適当)患者の痛みをできる限り減らすことから、患者の注射器の針は血管のなかに刺したままである。普通の針より太くて、痛いが、一回だけを我慢すれば、後で注射する度に、一回一回新しい場所を刺さなくて済むから楽である。ところが、その注射の針が五日ごとに変える必要がある。なかに溜まった血の塊が、梗塞の原因にもなるらしい。

そして今日は前に登場した男の看護師に針を変えてもらった。

「カンチョウさん、針変えますね〜」

と言いながら、男のナイチンゲールがゴムチューブで僕の上腕をしっかりと縛り付けた。血管を見えやすくするためである。

「じゃ、ちょっとチクっとしますね〜」

グサッと前腕に刺した。

 

ここで終わるはずだったが、彼の様子が頗る怪しい。

「あれ?あれ?」と独り言を呟きはじめた。

 

どうしました、と尋ねましたが。曰く、どうやら針が血管に入ってなかった。

眉間に皺を寄せはじめ、針を半分ぐらい抜いた。そして刺す方向を変え、グサッと。

これもまた血管に達してないらしい。

彼が完全に眉を顰めた。

同じ顔で同じ方法を2回ぐらい試した後に、針を完全に抜き、諦めた。

 

「カンチョウさん、本当にごめんなさい。私年配の方の注射が上手ですけど、若い人は血管がわかりにくいですからね〜」と、僕に謝りました。そして、「他の人に変えてもらおうかな〜」と、自信なさげに弱音を吐いた。

もちろん、他の人に変えてもらったほうが安全であるかもしれないが、その後のことを考えると、全く彼のためにはならない。第一、彼の自信を損なうことになる。第二、ずっと上手くならなかったら自分以降の患者さんが可哀想。

そこで僕が思い出したのが、地蔵菩薩の偈であった。「我不入地獄誰入地獄」の大願を発し、他人のために、自己犠牲を厭わない姿が僕の背中を押してくれた(悪魔よ、去れ)

「よしっ!ナイチンゲールのためなら、他の患者のためなら、ちょっとした痛みを我慢できる」と決意した。

そして、「いや、人変えなくていいですよ。お願いします。」と彼に頼みました。

「わかりました」、グサッ

なんと一回で成功した。

喜んでいるナイチンゲールの姿を見て、僕もホッとした。

 

今日の「さざ波」が幾重もあった。

 

夜の看護師が挨拶をしに来ました。

「こんばんわ、夜の担当の◯◯です〜、よろしくお願いします。」

なるほど、この人も美人やなと思ったが、疲れていたので、挨拶を返した後に、アイマスクを付けて休もうとしていた。

(この前に登場した可愛い看護師と区別をつけるために、今日の看護師を看Bにする、もちろんこの前の看護師が看A)

 

しばらく経つと、カーテンの向こうから、イケメン君の声が聞こえてきた。

「可愛くないですか?!」(興奮気味)

「可愛いよね」と僕も賛同した。

「俺シート剥がれそうだから、貼り替えてもらいますわ、そして色々聴き出しますわ」とテンション高めに僕に言った。

そして、看Bさんがイケメン君のシートを貼り替えている間に、携帯を弄っていた僕は、電波を求めて、部屋の外に出た。十分ぐらい経つと看Bさんが部屋から出て行くのを見て、僕が部屋に戻った。イケメン君のカーテンを開けると、そこにいる彼の顔色が決して歓喜の色ではなかった。

「どうしたの」と聞くと、なんと看Bさんすでに結婚していたのが分かった。

イケメン君顔が曇りはじめ、やがて悲しい面になった。

その後、彼を慰めるために我々が前からやろうとしていた「各階可愛い看護師を探す旅」を行った。結論から言うと、やっぱり僕たちがいる階のレベルが一番高かった。

 

既婚女性が青年に与える痛みが斯くの如し。