入院漫談⑨

 やっと口呼吸になれた気がする。いまや先生の指示通りに毎日鼻うがいをしている。鼻をきれいにすることと、鼻腔の中から溶けたガーゼを流すのがその目的である。すでに前述したように、僕の両鼻の奥までガーゼが詰まっている。そのガーゼは一般のガーゼではなく、一定の期間過ぎたら自然と溶けるガーゼである。吐き出すとそのガーゼの上に古い血がたまっているので黒く見える。

 最初からこのガーゼに体が抵抗していた。24年間無意識的に鼻で呼吸していたため、いきなり空気の正当な通路が塞がれるとどうしても不慣れが大きかった。口呼吸も決して気持ちいいのではなかった。呼吸を人が家に入ると譬えると、空気が人であり、気管や肺が家に当たる。そして、鼻呼吸とは玄関のドアから部屋に入ることであり、口呼吸とは玄関に鍵が掛かってて入らいないから、窓から入らなくちゃいけないのである。

 寝る時は特にその抵抗が強い。口呼吸がまだ体の潜在意識として記憶されていなかったため、寝れば呼吸が止まってしまうじゃないかという杞憂があって、必死に眠気と戦っていた。折角看護師から安眠薬点滴してもらったのに、頑なにに寝ないようにしていた。途中で何回か寝落ちの事もあったが、自分の鼾声にすぐ起こされた。

 9時に消灯して、翌朝までの間ずっと、ガーゼの事が気になってしょうがなかった。一刻でも早くこの異物を取り出したかった。入院の計画書では、術後3日目にガーゼを取ると書いてあったが、それすら長く感じた。その気持ちは2年次に部活辞めたい気持ちと通ずるとこがあった。4年で引退できることは知っているが、それが長すぎる。終わりはいずれ見えてくるけど、先はまたまた長い。

 期限が見えてくることはわからないよりよっぽど安心できる。術後の夜、眠気と戦うために、そして自分に期待を与えるために、入院計画書の三日目を何回も、何回も読んでいた。

 余談ながら、やはり僕の考えが飛んでいる。計画書を繰り返して読んでいるうちに、なぜかマンデアを思い出した。確か彼は27年間入獄されていたが、最初は終身刑として投獄されていた。先が見えないところが、先がないはずだった。僕の場合は術後三日目にガーゼから解放されるという明確な期間があるのに対し、彼は一生牢獄の中で過ごすかもしれなかった。それでもこの偉人は収監中今できることだけを考え、勉学を続け、法学士号まで取得した。束縛されて、終わりが見えてこなくても平常心でいられる彼には、吾輩は遠く及ばないと考えていた。

 マンデラの境遇を考えるとたかが3日間は何とか耐えれる気がした。

 ところで、次の日看護師に確認すると、ガーゼは取らないよと言われた。見えてきた薄い希望の光が情けないけどかわいい看護師に消された。彼女曰く、僕がもらった計画書は古いバージョンで、いまは医療科学の進歩により、ガーゼは取らなくても鼻の中で溶けるようになっている。それがどのぐらい時間かかりますかと僕は聞き返した。その答えは1週間ぐらいであった。

 3日間さえ我慢すればいいのに、今は1週間ぐらいになった。これは進歩とはいえるのか。僕はまた絶望の深淵に堕ちた。

 

 力を与えてくれよマンデラ氏。